青ヶ島の魅力発見講座 in 青ヶ島

上映作品

『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(96分 / 1955年公開 / 監督 中川信夫 / 出演 左 幸子・香川京子ほか)

『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(96分 / 1955年公開 / 監督 中川信夫 / 出演 左 幸子・香川京子ほか)

伊豆諸島にある孤島・青ヶ島。節子はこの島の出身で、苦学を乗り越えて東京の小学校の教員に採用された。その夏、妹・良子の結婚もあり、節子は夏休みを利用して数年ぶりに青ヶ島へ帰郷。故郷の小学校を訪ねた彼女は、東京か ら赴任した教員が過酷な島の生活と風俗習慣に 耐え切れずに退職したことを知る。変わらない古い因習に縛られる子供たちを目の当たりにして、節子は両親の反対を押しきり、島の教師になることを決意する‥‥。(「Oricon」デー タベースより)青ヶ島の魅力発見講座 in 青ヶ島

上映終了後のワークショップ

左から 青ヶ島村教育委員会・委員長 田中孝明 青ヶ島環住太鼓・代表 荒井智史 伊豆諸島シネマセンター・代表/副代表 大澤未来/高野利里矢

大澤 本日はお集まりいただきありがとうございます。まさに映画のタイトルどおり、青ヶ島の小中学生と学校の先生方、また村の年配の方々と一緒にこの作品を見る事ができてとても嬉しいです。

この映画は何がテーマなのでしょうか。たとえば離島の教育問題とか、いろいろなテーマが含まれていると思うんですけれども、私が面白いなと思ったのは、最終的に電報とか手紙を内地とやりとりして、最後に本土から飛行機で物資が投下されるのですが、その内地と離島のやりとりが大事なテーマだと思いました。

荒井智史(以下荒井) 僕はこの映画を初めて見た時に、ドキュメンタリー映画だと完全に思い込んでいて、創作の映画というより、ドキュメンタリー映画だと認識して見始めたんですね。

それでいきなり東京のシーンからはじまって、まず東京のシーンが長いなと、いつ青ヶ島に行くのだろうと見ていたんですけども、一番最初に気になったのは「島言葉」です。頑張って島言葉を喋ってるんだけどちょっと違和感がある。あんまり正確じゃない島言葉で、その島言葉のイントネーションとか、使っている時のパターンとかが違うと、そこが気になっちゃう時がありました。

一生懸命すごく調べて、青ヶ島の島言葉と八丈方言を使おうとしているのは分かるんですけど、微妙に間違っていてずっと「おじゃれおじゃれ」と(笑)青ヶ島では「おじゃれおじゃれ」とあんなに言わないので、婚礼のシーンも八丈島の結婚式だったら理解できるんですけど、そういう細かいところが違和感ありました。

もう一つは神事の描き方。すごく否定的に神様拝みなんてダメだと。実際病気になったりしたら、まず巫女さんが来て祈祷をしてという世界は、映画が公開された1955 年はそういうのが当たり前だった時代だと思います。

自分はライフワークで青ヶ島の郷土文化を調べてきたけど、神事も大切な青ヶ島の文化です。一番最後のシーンで男の子がすごい素直な事を言っていて「僕は神様拝みはダメだと思ってたけど、今は拝みたいなぁ」みたいな話をしてましたけど、やっぱり生活していてどうにもならないシチュエーションがたくさんあって‥‥その中から人の祈りみたいなところまで、神事はそういう青ヶ島の人の永年の祈りが一つの形になった文化だと自分は思っていて、一方的にダメという風に描かれているのがすごく引っかかりました。

あとは婚礼のシーンで太鼓の音が流れてたんですけど、青ヶ島の婚礼なのに八丈島の「しゃばたき」と「太鼓節」が唄われていました。だけどよく聞くとすさまじい名演なんですよね。70 年前だと考えると、かなり貴重な名演が収められていると思います。この映画でどうしても監督がこの太鼓の音を入れようと思ったというのは、やっぱり八丈にロケに行った時に、太鼓がすごい印象に残ったからこそですよね。最初は景気良く演奏が始まって、姉妹がお別れの話をするときに太鼓の音が小さくされちゃうんですけど、実は小さくされた時に「太鼓節」が入ってて、よく聞くとかなりの名演で、僕はそっちに耳が行き過ぎて、ふたりの涙の別れのシーンの会話が全然入ってこなかったです(笑)

大澤 私はドキュメンタリー映画の監督をしているんですけれども、どういう経緯で作られることになったのかと調べていくと、まず大事なのは高津勉先生の『くろしおの子』(注1)が元になっているんですね。この本で高津先生が何をしようとしたかという事ですね。

映画公開が1955年なので戦争に負けて日本がアメリカのGHQから表現の検閲を受けて、こういう表現はしてもいい、しちゃダメというのをアメリカが決めていました。戦後に高津先生が青ヶ島に赴任して青ヶ島の子供たちと過ごす中で、どういう思いで生活したかという事ですね。『くろしおの子』のあと書きにこう書いてあります「前の日本人は正しいことを言ったり書いたりしなかった。そのために戦争が起こったのだ。あんな嫌なことを二度と繰り返さないためにも、思うこと考えたことを勇気を出してどんどん書かなければいけないよ」と高津先生が青ヶ島の子供たちに話しているという事なんですね。それで青ヶ島の子供たちに勇気を出して自分たちの生活の事について書いてもらったのが、この『くろしおの子』という本なんです。

あと大事なのは54年に公開して大ヒットした映画で『二十四の瞳』(注2)という映画があります。これも瀬戸内海の小豆島で戦前戦後に女性教師が子供たちと生きる映画です。また『山びこ学校』という本(注3)があって、山形の山奥の子供たちを無着成恭という先生が指導するんですけれども、これに高津先生が影響受けていると思います。子供たちの「なんで僕たちは貧しいのか」とか「親たちは何で生活が良くならないのにお酒ばっかり飲んでるのか」とか、そういう話がたくさん出てくるんですね。この本があって高津先生が青ヶ島でも何かできるんじゃないかと作った本が『くろしおの子』で、それを読んだ映画人がこれは映画にできるんじゃないか、という流れになっています。

だから同時代的に田舎の子供たちの教育を描いた映画がこの時代にたくさん作られています。この映画とは別に、他の会社でセミドキュメンタリーといって地元の子供たちに出演してもらう『黒潮の子』という映画を作ろうとしていたという話があって、これは結局完成しなかったと思われるのですが、同じ時代に2 本の映画が同時に制作されていた。1本は今日見た劇映画、もう1本はセミドキュメンタリーで完成しなかったという裏話もあります。

あともう一点、映画の最後のシーンがむちゃくちゃ長いですよね。物資が投下され日の丸を振ってみんな「ばんざーい」と連呼するシーン。これは実際にあった事を下敷きにしてはいるんだけれども、かなり執拗に日の丸を振り、東京から物資が運ばれてきて降ってくる、あのシーンは戦争の濃厚なイメージが残っている。戦時中に青ヶ島も空襲があって爆弾が降ってきました。アメリカ軍が爆弾を落とすか、日本が物資を落とすか、2 重のイメージが交錯しているという見方もできると思います。おもしろい逸話としては、この『くろしおの子』が出版された時に海が荒れていて全然青ヶ島に届かなくて、やはり飛行機で本を落とすという逸話もあります。そういうのも含めると、飛行機から落ちるもの、という視点からいろいろな事が見えてくると思いました。ではグループディスカッションをはじめようと思います。

参加者とのグループディスカッション

参加者A グループでは「当時の時代背景と今の社会の違いを感じながら見るのは面白かった」「お別れのシーンで青ヶ島でつかわれる 『おもうわよ』という言葉をぜひ使って欲しかった」という意見が出ました。 私の義理の父が青ヶ島に小学5 年生まで住んでいて、この映画が作られる前に、物資を投下してもらった時に小学校3年とか2年生だったと言っていて、小さかったからほとんど青ヶ島のことを覚えていないんだけど、そのことはすごい覚えていると言っていて、楽しみで楽しみでしょうがなかったと話していました。

大澤さんはあのシーンが長いと言ったけど、当時の人たちからしたら衝撃的な事で、わざわざ飛行機を使って投げ入れて、そんな夢みたいな事ができるわけないだろうと思っているけど、本当にあったんだよっていうので、映画のシーンも長かったのかなと思いました。

大澤 青ヶ島に初めて物資が投下されたという、歴史的にそういう事実になるわけですよね。

参加者A 1955年ということを考えると、すごい今、2023年に見るのは、いろんな意味が あったのかなと思いました。色々考えさせられました。

大澤 今の時代に物資の投下というのは、どういうことに当たるわけですか?

参加者A 今はAmazonがポンと届くじゃないですか。何か私たちって豊か過ぎちゃってるんじゃないかなとか。昔の何も届かない時も、もしかしたらそれはそれで何かいいところがあったんじゃないかなと‥‥

参加者B やっぱり電報は素晴らしいなと思いましたね。あれだけ何も来ないのに電報だけはちゃんと来るわけで、それを確立してる日本もすごいし。

参加者C 神事についてですが、家族が病気になった時に、どのように乗り越えてきたのか、お祈りの様子について実際も映画と同じイメージだったのか知りたいです。

青ヶ島池の沢

中学生A 田舎とか貧乏とかの強調がすごいなって思って、なんか全然、青ヶ島のきれいな景色とか、夏の海とか、楽しい感じが出てなくて、そんなに貧乏さを強調したかったのかなと思いながら見てました。

大澤 55年ってあんなに貧乏じゃなかったですか?それともあれぐらい貧乏だったのか、どうですかね。

立川村長 私は映画に出てた子供たちとほとんど同じ世代なんです。日本中貧乏でした。特に青ヶ島だけとは感じません。私は九州で生まれて子供時代を過ごしたんですが、やはり1日1食、2食は麦飯だったんですが1食はそれに代わるような、うどん粉の名前もついてないような食べ物でしたし、やはり敗戦後10年はまだまだ食糧のお米は配給といって、政府が家族の数によってお米を配るという、そういう時代でした。ともかく日本中が貧乏だったということは確かです。私の感想を言いますね。細かいことは言わない、やっぱり青ヶ島はいい。百年後の青ヶ島はこじんまりはしてるけど、ぜったい栄えた島だと、あらためて確信しました。敗戦で一挙に解放されたエネルギーが溢れるこの時代の映画はいい。この日本の中で一番小さい島、それを取り上げていこうという姿勢自体がやはりリアリズムの一環だと思いました。

中学生B 電気がつかなかったところをちゃんと映していて良いと思ったんですけど、昔は電気がついてなくて、今は電気がついてるっていう状態が、昔は本当に貧しい生活をしてたんだなって実感しました。

大澤 今回の青ヶ島と八丈島で同じ映画を見るという講座のテーマは「手紙を届ける」です。昔、青ヶ島では定期船で手紙が月に一度来て、次の定期船が1ヶ月後になるので、船が出航するまでに、受け取った手紙の返事を港で急いで書いていました。今日も、あと10 分ぐらいで船が出ちゃうという想定で、用紙を配るので、今日みんなが議論した事を下敷きに、次回八丈島で映画を見る人たちに、私は青ヶ島の上映でこういう風に思ったんですがどうですか?という手紙を書いて終わりにしたいと思います。今日はありがとうございました。

(注1)高津勉[1955]『くろしおの子』新日本教育会。
(注2)木下惠介[1954]『二十四の瞳』松竹。
(注3)無着成恭[1956]『山びこ学校』百合出版。

上映終了後

青ヶ島の魅力発見講座 in 青ヶ島 佐々木宏さんの体験談

佐々木宏(以下佐々木) 映画の最後のセスナで落としたのは、私が小学校5、6年生の時だと思う。パラシュートを付けて落とすのは大事なものだけで、あとの食料はちょうど「ちょんていら」(ヘリポートがある場所)で落としても、「中原」(学校や住宅のあるところ)にバタバタバタって落ちていって。それが落とすと結果、壊れてたりするものだから、醤油は一升瓶だと割れちゃうでしょう。粉醤油って言って粉に水を入れると醤油になるやつ、味噌も水入れると味噌になっちゃう。学用品とかはパラシュートで落として1個だけパラシュートで落としたのが海のほうに飛んでった、ひとつだけ。もうそれはまた後で送ってくれたんだけど、本当に本当に涙が出た。

ほんとに食べるものがなくて、もちろんサツマイモが主食で、お腹が減ると他所の家の畑の生のサツマイモを食べてね、それでも、食べるものがないからしょうがないよね、だから誰も怒らない、子供たちにはね。そういう青ヶ島の助け合いの精神というのがあって、得たものは決して1人で食さないというね、必ずみんなで分けて食べる。そういう文化があるから、天明の大飢饉から、こんなに苦しい生活をしていても一人も餓死者を出したことがないというのが青ヶ島の食文化の歴史なんです。

大澤 高津先生は映画に出てくる感じと違いますか?

佐々木  何かイメージが違うなあ(笑)高津先生は(青ヶ島に)先生が少なくて、自分で東京の学校に行って探して結局は見つからなくて、自分の出身の法政大学の学生を3人連れてきて授業に立たせたりね。

私が一番感謝するのは、高津先生がとにかく電気の明るさ、氷の冷たさ、そういうことを全然知らないで、このまま東京に出したらどうなるんだろう、ということで修学旅行に連れて行こうと中学1年生から3年生まで24人の各父兄をあつめて、このままではどうしようもなくなっちゃうから修学旅行でもって東京を見せてこようと‥‥「先生それは良きことだじゃ」と話が進んだけど「どれくらいお金かかるの?」と聞いたら「1人3千円」と言う。そしたら「我が家の父ちゃんの日当が2百円でそんな金がどこにあるんじゃ」と怒られて(笑)

高津先生はね「分かった」ということで、また上京して東海汽船をチャーターで無料にしたり、はとバスをタダにしてもらったり、寄宿舎は江戸川の建具屋さんの家を無償で提供してもらったり、江戸川の婦人会の方に炊き出ししてもらったりして、1週間修学旅行に行ってきたんですよね。

大澤 青ヶ島のはじめての修学旅行ですね。

佐々木 そうなんだよね。もちろん青ヶ島の形を見るのもはじめてなんです。島に住んでるから島の形がどんなか分かんなかったのが、このとき「青ヶ島ってこんな形なんだ」ってはじめて見たんですね。東京へ修学旅行に行ったこともないし怖くてね。本当に自分たちと同じような人間が住んでるんだろうかみたいに(笑)ぶったまげとうじゃ(笑)

大澤 島を出ることによってはじめて島の形を認識するというのは面白い話ですね。

佐々木 それで後楽園に行った時にナイターでジャイアンツの試合でね、場内放送で「ただいま青ヶ島の修学旅行生が入場しました」って言って、3万人が入っていて、どこにいるか分かんないって(笑)同級生がね、あれわビックリしたなぁ!って、そりゃそうだよねあんな明るいもの(球場の照明)見たことがないんだから。

首相官邸にも行ったんだけど、岸信介さんが総理大臣だったときね。女の子からタニワタリを贈呈した。そしたら「皆さんもね、一生懸命勉強すれば総理大臣になれるから頑張りなさいよ」という言葉を岸さんから言われたのをおぼえてます。

あんなに親がね、みんなどこの家にも5人から8人子供がいて、食うに食えない生活なのに、無尽を組んだり、借金して、私と姉さんの2人で6千円も出してくれて、親はどうやってお金集めたのかなと思うんだけど、本当に当時の親は苦労したと思いますよ。ありがたいと思ってます、ほんとに。

シダと杉

大澤 ほんとにそうですね‥‥ちょっと聞きたかったのは映画に出てきた神様拝みとかは結構違うじゃないですか。ああいうシーンは、宏さんに言わせるとどうなんですか?

佐々木 映画に出てきたのは祈祷でしょう。青ヶ島の場合は「読み上げまつり」と言って、まず身を清め、昔は海岸まで行って海水で清めて、塩花をもって境内を清め、それからお湯立てというのをやって、全部きれいにしてから一連の「読み上げまつり」をやるわけですよ。それも時間的には12時間ぐらいやるので、終わるのは12時近くまでやるわけです、朝の8時から。だから神様を寄せてお願いして帰ってもらうんだけど、結局巫女さんが扇子で舞い、社人(しゃにん)は居舞、立舞、はんこう踊りとか、いろんなことをやって神様に喜んでもらって帰すというのが青ヶ島の神様拝み「読み上げまつり」なんですよ。だから(映画に出てきた)あんなことは絶対やらないですよ。

天明年間の噴火からね、55 年で還住を果たし今があるのはね、やっぱり神のおかげなの、夢中になっちゃいけないけど。だから大里神社、東台所神社、金比羅さん、渡海神社、あの玉石の数を見てください。もう何万個とあるわけでしょう。それはみんな人力で海岸から上げて、海水で清められた一寸の汚れも無いものを並べて、青ヶ島の人たちというのは守ってきたわけですよね。

東台所神社の境内の中には、おつなと浅之助の慰霊があるわけですよ。あるとき開けてみると、その中に紙が乗っかっていた、何かあるなと思って開いてみたら、もう震える手でね「神様助けてください」っていう字が書いてあって、お賽銭が乗っかってるのを見つけたんです。やっぱり都会から来る人もね、そういう苦しい時に青ヶ島に来て、青ヶ島の神様をそうやって拝んで帰る人もいるんですよ。幸せになってくれると良いなと思いながらね、私はちゃんと拝んで、清めてくるんだけども。

為朝百合

参加者A 飛行機からの物資の投下は一回だけですか?

佐々木 一回は東京都のなんだけど、その後に森繁久弥さんがセスナで子供たちにチョコレートと大人にたばこを落としてくれましたね。そういうのがみんな雑誌ね「明星」と「平凡」に載ったもんだから、そのあと慰問品がいっぱい来たの。手紙もいっぱい来て、子供たちがみんな分担して、何十通ももらって返事書いたんだけど。そうすると中にお金が入ってたりするわけよ。それはね、先生って高津先生に渡したけど、どこにいったのかな(笑)

大澤 今回いろいろな資料を読み込んでいてびっくりしたのは「牛祭り」は高津先生の考案っていう‥‥

佐々木 「牛祭り」は要するに当時は車の代わりにみんな牛でしょ。もうみんなぶったり張ったりしてさ、荷を運ぶわけですよ。それを年から年中やるわけでしょ。それを見ていて、高津先生が、やっぱりね、つかうばかりじゃ駄目だと、1年に1回牛に感謝する日を作らなきゃ駄目だということで「牛祭り」ができたんですよ。

もう一つ、それに合わせて展覧会を開いてね、工芸手芸加工品を出品して、それを今度競売にかけるわけですね。例えば何でもいいんだけど、野菜でも何でも焼酎でも、それを子供たちに売上を全部寄付するんですね。そうすると千円しかしないものが1万円まで上がっちゃうのよ。それはなぜかと言ったら子供たちに寄付するからって事でみんな買って、千円が五千円になって、あいつに負けたくないっていって1万円くらいになって。それが子供たちのものになるから全部。それで学用品を買うようにという事で、それをやって。それで島の人たちもね、仕事ばっかりじゃなくて3日くらい休んでね、交流をしましょうということで。

大澤 資料には高津先生は村の人たちが花札ばっかりやっているから、それを辞めさせるために「牛祭り」を、東北に「馬祭り」というのがあって、そこからヒントを得てやったと書いてあります。

佐々木 僕らが卒業して島を出て行ったら、だんだん人口が少なくなって青ヶ島の「牛祭り」も衰退しちゃったんですよ1回。で、山田常道先生が、このままだと八丈小島になっちゃうと、早く帰ってこい、という事を言って、帰ってきたのが昭和47年、それから青年団を結成して、そのときに「牛祭り」も復活させたんです。

参加者B 港をつくっていただいた時に、ちょうどみんなで、船が接岸した時に重子先生と行ったんですよ。接岸するとき重子先生が感激して、みんなであそこで踊りました、港で。

佐々木 あのハシケ作業は今日見た映画と同じだから、それで冬は3ヶ月も船が来ないわけですよ、港が無いんだもん。それから一生懸命みんな炭を運んだでしょう。あれはね、自分のところをいち早くね。一俵でも多く出せばお金が入るので、競って出すわけですよ。それで港にいっぱい積んで、順々にハシケでやるんだけど、もう日没で暗くなってできなくなっちゃって、船出ちゃう。欲張って出した人は、またそれを上に上げないといけない‥‥それが大変なんですよ。

そこまで計算できなかったんでしょうね。炭ませんって(会場笑)本当に何でも昔の人はやったでしょう。綿でしょ、サトウキビで黒砂糖も作ったし、本当に昔の生活は大変だったけど、何でもやったから、みんな分け隔てない、みんな助け合いの精神だから、明治14 年には八百人ここに人が住んでたんです。

参加者C 私は教員なんですけど、感動しました。高津先生は(青ヶ島小中学校に)校歌がいつも貼ってあって。学校というものがいろんなところで島と関わってきたんだなとほんとに感じました。島の中から何かというのもあるんでしょうけど、外から来た人が学校というものがすごく重要で、島との関わりが今すごく少なくなっているというのは、今の問題としてあるんですけど‥‥そういう昔からのことを考えると、その連続として今の学校があるんだなと私は思って。すごいことだなと。ショックを受けました。

大澤 宏さん、今日は貴重なお話をたくさんしていただき、ほんとうにありがとうございました。