八丈島と八丈小島の魅力発見講座

上映作品

島の子どもの夏休み』 (28分/1966年/NET、東京都教育庁)

『島の子どもの夏休み』 (28分/1966年/NET、東京都教育庁)

東京のへき地、八丈小島の子どもたちは夏休みをどのように過 しているだろうか。生活や遊びや教育現状を追ってみる。

『さようなら八丈小島』 (9分/1969年/東京都映画協会)

『さようなら八丈小島』 (9分/1969年/東京都映画協会)

東京から南300kmはなれたところに八丈小島がある。 島民24世帯、94人は貧困と苦難に耐えながら生活をしてきたが、42年、ついに新しい生活の場所をもとめて、全員離島にふみきった。

『女童の島』 (15分/1987年/東京都映画協会)

『女童の島』 (15分/1987年/東京都映画協会)

女島と言伝えられる八丈島にカメラを向け、流入によってもたらされた特異な文化や人々の暮しとともに、島ゆえに抱える問題をたどってみた。

アーカイブ資料

(記事)どういう生業があるのか: テングサ漁、磯でおかずを探す、トウモロコシや里芋 (記事)デフォルトで言われる内容 : 島に若者がいない(映像では船を動かせる若者がいないという話が出てきた)、お医者さんがいない
(写真)移住問題の集会(よそ者は立ち入り禁止と書かれている)
(写真)離島が終わった後の教室の黒板に落書きが残っている
(写真)浅沼不二男さんが鳥打部落に後始末に写真家と一緒に訪れた時
(写真)全島離島する時の最後の卒業式
(写真)離島の時に八丈島へ持っていくのを忘れたお地蔵さんを運ぶ
(写真)離島後の様子(鶏、ヤギなど)
(写真)元鳥打村長の鈴木文吉さんが書き残した歌(碑文)
(写真)故郷でのキャンプ(離島した後にみんなが島に戻ってきて屋外で食卓を囲む)
(記事)生活の火を消す八丈小島の話(離島前夜にマスコミがセンセーショナルに取り上げてきた文脈の中で書かれた記事。 「人間悲劇」というキャプション)

交流・資料の共有 ガーデン荘にて

ガーデン荘にて

上映終了後のワークショップ

大澤 本日はありがとうございます。会場を ガーデン荘(注1)としたのは、八丈島らしさを感じられるのと、もともとガーデン荘は八丈島や 八丈小島を研究される学者の定宿でもあったので、栄子婆への恩返しの趣旨も込められております。今回の企画は、副代表のりりさんが担当 になっているので、基本的にはりりさんの進行でお願いします。
高野 はい、よろしくお願いします。上映の3 本目は八丈島の内容でしたが、基本的には八 丈小島を中心に皆さんと情報共有・議論をします。全村離島になる前後に、色々なメディア・ ジャーナリストが八丈小島に関して取材をかけています。まず全村離島へのプロセスを確認します(注2)。

・ 1966年3月18日 小島地区住民が「移住促進、助成に関する請願書」を八丈町議会に提出
  
    <請願内容>
1. 電気水道医療などのインフラ整備がなされて いないこと
2. 経済格差が顕著なこと
3. 若者の島離れが深刻で年々人口が減少してい ること
4. 3の点と関係して住民の高齢化 

・ 同年 5月28日 請願書を受理、総務財務委員会に付託
・ 同年 6月22日 町議会にて、総務財務委員会 の結果報告を受け八丈小島住民の移住に関する 請願を採択
・ 1967年9月9日 八丈町が東京都に対し「八丈 小島住民の全員離島の実施に伴う八丈町に対す る援助」の陳情
・ 同年 11月9日 都首脳会議で援助の基本方針 決定
・ 同年 12月17日 美濃部都知事来島し、住民と 対話集会
・ 1968年3月 都の1968(昭和43)年度当初予 算で援助内容決定
・ 1969年1月14日 離島開始(引揚第一陣)

(注2) 榎澤幸宏[2018]『離島と法』株式会社法律文化社、 より抜粋。

高野 アーカイブ資料を発掘してみて、各メディアの報じ方が、貧しい生活、収入がない、お医者さんがいない、連絡船がなかなか来ない等、既定路線の文脈で取材がなされているというのが、私たちの印象ですが、それをどう考えるのかを本日皆さんと議論したいです。

ですので、我々のメディア報道の切り口の印象は結構似通っていて、集団離島が決まった段階で取材を掛けているので、論調に多様性はないという印象です。しかも本日上映した八丈小島に関する2作品は東京都が製作しているので、東京都からの視点です。1本目の作品も離島が決まった段階で無着成恭さんを派遣して、そこで離島を分析している訳です。

大澤 そうですね、フィルムに関しては本日上映の2作品は東京都の元日比谷図書館にあったものが、現在の西国分寺の都立多摩図書館に移されて、八丈小島に関してはこの2作品だけです。そこで、この後のディスカッションの方向性のポイントを私たちからお示ししたいと思います。りりさんお願いします。

高野 はい、まず、昭和28年に離島振興法が制定されて、そこから離島への国の援助が手厚くなったという経緯があるなか、そこで救いきれなかった八丈小島という問題をどう皆さんと捉えていくべきかを以下の論点で考えていきたいです。堅苦しい話になってごめんなさい(笑)まず、僻地教育に光を当ててきた無着成恭さん(注3)ですらが、山形県の山奥の僻地と八丈小島の僻地の将来を一緒くたには出来ない、と言っている問題がありますね。

大澤 陸続きの山間部と、海によって隔絶された離島は違う、っていう言い方ですね。

高野 僻地における教員のモチベーションと地方の教育行政について、ちょっと考えたいと思いました。もう一つは、写真にもあったのですが、遺骨を抱いて離島したことについて。とても印象深かった写真なので、家族と先祖と土地の関係性について考えてみたいと思います。ヤギと牛1 頭を残してきた意味、とか。

また、今回福島県立医科大学の立柳先生を講師としてお招きしているのですが、先生は2019年の八丈小島離島50周年シンポジウム(注4)でも登壇されていて、今回、先生が八丈島の定宿としているガーデン荘で八丈小島のイベントをやる、ということで、とても楽しみにされていました(笑)。先生何か、ディスカッションのテーマ等あればよろしくお願いします。

立柳聡(以下立柳) はい、2019年のシンポジウムと基本的には同じ話にはなりますが、私が一番気になる点は、全村離島を決める合意形成がいかにして行われたかという点です。

宮本常一著『日本残酷物語』(注5)に八丈小島の過酷な生活状況が描かれていますが、過酷というだけで簡単に故郷を離れられるかどうかは、私から見れば非常に疑問です。家や土地に対する愛着がある以上、例えば東日本大震災の時も移住が大きな問題になりましたが、簡単に合意できませんよね。世界的に見ても移民や難民の問題が現代的な課題としてありますし、八丈小島の全村離島を八丈島の問題だけに留めておくべきではないと思いました。

高野 なるほど。合意形成の問題ですね。‥‥という訳で、議論の方向づけとしては、教育の問題と合意形成の問題が浮かび上がってきました。これ以外のテーマでも良いので、今からグループに分かれてディスカッションをお願いします。ディスカッションの後は、代表の方に内容を発表してもらいます。よろしくお願いします。

えいこばあと立柳さん

グループA 合意形成のプロセスで、直接民主制の話し合いの中で、おそらく反対意見も出たでしょうが、最終的に離島という結論になったものの、帰郷への思いも強かったのではないでしょうか。お墓を残してきたのは、島へ戻りたいという気持ちの一つの表れではないでしょうか。お地蔵さんを担いで離島した写真は決意の表れの象徴ではないでしょか。同じように神社に関しても、為朝神社は残して、戸隠神社は移転させたのも決意の表れではないでしょうか。

グループB 教育の件を八丈小島で育った方に聞くと、学校の先生は比較的若い方が多かったそうです。現代においても八丈小島と同様に、過疎地域においてはベテラン教員が赴任しづらい状況があるのではないでしょうか。バランスは大事という意見もあります。合意形成に関しては、最後まで反対者はいたようですが、最終的に離島で合意したのはある種やむを得ないのかなと。

故郷を離れることに関しては経験がないため実感がないですが、経験者の話を生で聞けて勉強になりました。

グループC こちらも教育の件、八丈小島と八丈島両方の教育現場に携わった方の話では、八丈小島から八丈島へ移住した子供の教育水準は遅れているようには見えなかったので、学力については僻地云々というより個人の資質ではないか、というお話でした。教員としては八丈島に赴任希望を出したのだけど、八丈小島への赴任になってびっくりした、という話も聞けました。

小さな子供にとってはどのようなコミュニティで成長していくかは大きな問題ですが、子供には一定の順応力があるので、子供の離島に関してはそこまで苦ではなかったのではないでしょうか。

グループD 私たちのグループでは、伊豆諸島シネマセンターさんが提案されたテーマに沿っては議論していません(笑)。八丈小島で教員を経験された方の話を伺いました。ご本人からお話ししていただきます。

元島民A 2年間、宇津木で教員をさせてもらいました。さっきから新米教員の話が出てきたけど、お米は新米の方が旨いんでね(笑)。夜に見える八丈島の大坂トンネルを走る車のヘッドライトを見て「帰りたい、戻りたい」と思っていましたよ。後の詳しい話は交流会で話します(笑)

高野 ディスカッション及び発表ありがとうございました。ここから全体討議に入りたいと思いますが、合意形成のプロセスについては、昭和29 年に鳥打村が八丈島の大賀郷以外の村と合併して八丈村になり、半年後に宇津木村と大賀郷が八丈村と合併して八丈町になりました。八丈小島の2 村で合併時期に差があるのは、合意形成のプロセスがそれぞれで違っていたことの証左かと思います。その辺の知見をお持ちの方がいればお聞きしたいです。

元島民B 離島の時、私は18歳でした。話し合いには加わっていませんが、それまでの(鳥打村での)生活状況は分かります。2村間で生活状況に変わりはないと思います。今は山の頂上からしか行き来ができませんが、私が中学生の頃は横道を通って約1時間で行き来ができました。ただ私より年上の方は9割がお亡くなりになったので‥‥話し合いの中身は分かりません。

大澤 ご発言ありがとうございました。合意形成については引き続き調べたいと思います。あと教育に関しては、教育と離島の関係にポイントがあるのかと考え当時の様々な記事を調べたところ、小島の教員の向こう10 年の人件費を人口で割ったら一人当たり300 万円になる、だから補償金として300 万円は要求できると考えていた住民もいたという記事もありました。

また小島に港を作れなかったというのも離島の大きな理由という声もあります。教育には潤沢な予算が下りている一方、港湾等インフラ設備への予算が通らなかった、という点で予算の使われ方に疑問があります。また八丈町誕生以降の小島出身の八丈町議会議員は鳥打の1 名しかいなかったという問題を指摘した研究者もおられます(注6)。そのような点から、予算配分のアンバランス、特にインフラに関しては憲法上の人権、生存権にも関わる話なので、疑問点があります。

教員A 子供がいれば、東京都が職員を派遣する形になるので、八丈町の予算負担はゼロです。また現在は、離島赴任の方は、初任者はほぼいないと思います。つまり島嶼地域への赴任は公募制度なので、早くても2校目になるのです。港に関しては、1島2港という構想があるのですが、青ヶ島では黒潮の流れが厳しく1港しか作れなかったという事実もあります。

高野 ありがとうございます。八丈小島の離島プロセスの問題については、引き続き来年度も上映やリサーチ等の活動を続けて参りますのでよろしくお願いします。


(注1)八丈島にひっそりと佇む知る人ぞ知る隠れ宿。八丈島を訪れる多くの研究者の定宿として知られる。
(注2)榎澤幸宏[2018]『離島と法』株式会社法律文化社より抜粋。
(注3)無着成恭[1956]『山びこ学校』百合出版。
(注4)八丈小島特別企画一全員離島50周年を迎えて一(八丈町、八 丈町教育委員会、東京都八丈支庁主催、2019年2月)。
(注5)宮本常一[1965]『日本残酷物語』株式会社平凡社。
(注6) 榎澤幸宏[2018]『離島と法』より。以下抜粋「現時点で手元に ある資料から判断できたことは、(中略)宇津木村が村民総会制度を採 用していたことから合併時点から宇津木出身者は議員として組み込まれ なかったこと、そして旧村単位の小選挙区制から全島一区制になったこ とである」

※「八丈島と八丈小島の魅力発見講座」は、9月18日@ガーデン荘と9月19日@商工会研修室の2日間行ったが、上記再録は、1日目の9月18日@ガーデン荘のみである

ガーデン荘全体