青ヶ島の魅力発見講座 in 八丈島

青ヶ島の魅力発見講座 in 八丈島 

上映の様子

上映終了後

大澤 『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』の11年後に撮られたNHKのドキュメンタリー(注1)で私が注目したのが、手紙をその場で書かなくてはいけないというシーンで、これは結構有名で、よく青ヶ島で語られる逸話なのかなと思っていて、私ははじめて聞いた時、結構衝撃的だったんですけれども、もう1カ月に1回しか船も来ないので、その場で読んでその場ですぐ返事を書かないと次の返事が1ヶ月後になっていくので、年賀状も3ヶ月遅れで届いたこともあるという話もありましたけれども。

今回、我々のワークショップでは、この映画を青ヶ島でやった後に、八丈島の人たち宛に船が出る前に一気に手紙を書くという想定でワークショップの最後に短時間で手紙を書いてもらいました。映画でも鉛筆を無くすというシーンがありますが、みんな鉛筆で書いています。八丈島の皆さんへということで手紙があるので、ちょっと読みますね。

手紙A 「八丈島の方へ とても面白い映画だと思いました。昭和30 年の時代がどんな時代だったのか考えました。神様おがみを否定的にとらえていましたが、この時は科学の時代を目指し神に否定的だったと思います。また、方言や田舎をダサイものとして描いていたと思います。令和の今、この映画を観て、なくなりつつある青ヶ島の言葉、神事。逆に大切にしなくてはならないと思いました。百年後の青ヶ島が昭和30 年の時のように個性的であるよう今できることは何なのか考えながら生活していきたいと思います。」

手紙B 「これが青ヶ島だ!! と言える内容ではないと感じました。それでも昔のくらしを少しでも感じられたら今の自分の暮らしが幸せなんだと思えます。あたり前が違うんだなと思う所が多かったです。くらしがそもそも違うし、子供が多い。子供は皆牛の世話をしたりと働いている。でもそんなつらそうなくらしを受け入れている。今の自分からしたらすごいなと思います。

共感したのはたいへんなことがあっても自分の島。別に嫌ではないというところ。不便でもこまることがあっても、私はこの島が大好きです。青ヶ島がいいところだとわかってもらえたらうれしいです。映画は楽しかったですか?」

手紙C 「こんにちは。青ヶ島の映画を見られてどう思われましたか?私は青ヶ島に住んで3 年目ですが、昔の文部省が青ヶ島の映画に関係していることにびっくりしています。しかし青ヶ島のえがかれ方が“ 違うんじゃない? ” と思うことがたくさんあります。住んで3年しかたっていない私でも思うので、島に昔から住んでいる人は???という感じだと思います。

お話として見るのはよいですが、青ヶ島の神事とか、もっと大切にしているものです。人により違うとは思いますが。八丈の方に行ったとき、青ヶ島から来たと言うと親切にしてくださる方が多いです。ありがとうございます。噴火の時もお世話になったと聞いています。今後もよろしくお願いします。」

手紙D「八丈島の皆様へ。この映画を見て八丈島の方は、昔の八丈島の生活が見れて楽しい時間だと思います。私は青ヶ島だと思って見たのですが、ほぼ八丈の風景だったので残念でした。昔の八丈の生活はどのような感じかは分かりませんが、どのように八丈の方々は感じるのか興味があります。ただ、青ヶ島の方は自分で鬼ヶ島と言うのか疑問に思いました。」

大澤 それぞれ違いますよね。

荒井 違いますね‥‥私の父が、ちょうどこの映画が放映された1955年の生まれで、いま68歳なんですけど、父から聞いている子供の頃の青ヶ島の様子が、まさにこの映画で描かれているような感じです。

映画の方は、やっぱり大きな制作会社さんが作っているということで、ドキュメンタリーではなくフィクションで撮影をして撮られたものなんですけど。細かいところは島言葉とかですね。ちょっとかなり違和感があって、今の僕の年齢で見てもこれ言わないな、とか。ちょっと発音の仕方が違うとか。気になるところはあるんですけれども、でも中で起こっている出来事っていうのは、本当に年配の方から聞いていた出来事と全く一緒って感じですね。最後のシーンでいろんな物がパラシュートに付けられて降ってきますけど、これも史実でして、ずっと船が来ない時にああやってパラシュート投下があった。

昭和22 年かな、終戦後から東海汽船の「黒潮丸」という船が月に一度青ヶ島まで、八丈までいつも走っている船なんですが、月に一度だけ青ヶ島まで足を延ばして就航するってことに決まったんですけれども、当時の話を聞くと、冬場はもうほとんど着かない。なので年に4、5 回着けばいいっていうような状態だったみたいです。

ですので、やっぱり船が来る日は、みんな学校を休んで、総出でもう夜が明ける前から港へ行って、牛で荷をひいてとかやってたそうです。青ケ島に電気が点いたのは1966 年の11 月ぐらいかな、5 時間限定の時間送電だったんですけど、初めて電灯が灯りました。多分八丈島の方は昭和の始めにもう電気が点いていたはずなので、ものすごい、40 年以上遅れてやっと青ヶ島で電気が点いたっていう感じです。

大澤 ヘリコプターはいつからですか?

荒井 初めて村の船として、連絡船「あおがしま丸」っていう船が走るようになったのが昭和47年なんですね。なので昭和の40年代は青ヶ島にとって大変革期で10年で電気がなかったところから電気が灯り、車が入ってきて、牛さんで荷物を運んでた世界から車で荷物を運ぶ世界に変わって‥‥

念願の村営船が就航するのが5 の付く日だけだったそうなんですけれども、月に何回か八丈島と青ヶ島を往復するようになって、もう10 年で東京の何十年分の進化を遂げたような時代で、定期連絡船が就航するあたりぐらいからですかね。

やっぱり冬場はほとんど船が来なくなっちゃうので、そういう時は行政ヘリという形で警視庁とか消防庁とかのヘリコプターが物資を積んで青ヶ島のヘリポートまで飛ぶっていうようなことはありました。僕の子供の頃も2 週間3 週間、冬場欠航が続いて、ヘリコプターが来て、そこから荷物が降りてくるっていうシーンが記憶に残ってます。

大澤 映画では神事が否定的に描かれていて、子供たちが「神様拝みなんかしても船は来ない」というシーンもありましたけど、そこは実際、当時はどうだったんでしょうか?

荒井 映画が描かれている昭和30年代の時代に、島で病気になった時に真っ先にお医者さんじゃなくて、巫女さんが来て祈祷するっていうのは本当の事実です。今の70代の方達は特に学校で色々教育を受けて、そんな祈祷とかで病気が治らないっていうのは分かっているんですけど、自分の親世代の人たちは、まずは巫女さんに頼んで拝むんですね。そこら辺のはざまで、すごく神事とかを否定するっていう気持ちがあったっていう話を聞きます。

ただ、描かれているような厳しい自然の中で、やっぱり暮らしていく上で、神様とか自然に祈るとか、そういうものは凄い青ヶ島の中で大事なことだったので、ちょっとね‥‥ 映画の中ではもう完全に前近代的なものとして言ってましたけど。でも最後に男の子が「先生、俺は神様拝みは嫌いだけれども、今は拝みたい」というような話を飛行機が来るのを願って言ってましたけど、あの気持ちこそ島で暮らす時の何かに祈るとか拝む気持ちの元かなとは思いました。

大澤 そうですよね。だから現在にも繋がっている心の在りようも描かれているという事ですよね‥‥
私がポイントかなと思った時代背景としては、この映画が作られた当時は、まだ選挙権がないんですよね。1950 年から56 年まで選挙権が青ヶ島にはなかった(注2)。日本で最後に残された選挙権がない島という。

荒井 そうですね。

大澤 なので、この物資が投下される投下されない、というものも何かそういう時代背景もあるのかなと感じました。東京都に言っても言っても何も反応がないと‥‥そしてなぜかですね、航空会社にツテがあるおじさんが(笑)

荒井 しまだくんのお父さん(笑)。逸話が残っていて、宮本常一先生を御存じの方もいるかと思うんですが、宮本常一先生、離島振興法の父とも言われてる人ですけど、宮本先生が青ヶ島からの窮状の手紙を受け取って昭和30年頃、東京都の代議士さんのところにお願いをしに行ったら「私の選挙区にそんな島はありません」と言われて門前払いを食らったという逸話が、宮本先生の本にも残っているんですけれども(注3)。要は選挙権がなかったので、青ヶ島っていう島も把握されていなかったというか、本当にそういう風な扱いだった時代のようです。

大澤 高津勉先生の『くろしおの子』という文集にも、中学3年生の子たちの文が載っていて、ちょっと読むと「政治をする偉い人たちは『みんな自由だ、この国民は自由平等、国の主人公だ』と言っていると教わったけれど、それは嘘だと思う」という作文があったり「この島の人たちには選挙権がありません。偉い人たちは口先ばかりで、実際にやっていないのです。」という、これは中学3 年生の作文ですよね。これは高津先生が意識的にそういう教育をしていたというのもあるのかもしれないですけれども。

「便利なところでも不便なところでも住んでいるのは日本人なのです。島の人は罪人ではありません。島には悪い人はいません。日本の民主主義は砂の上に建てた家と同じです。」と中学3 年生が書いている。こういう事を時代背景として、この映画における本土に何度も言っても何もしてくれないという物語に繋がっているのかなというふうにも思います。

あとは、映画が作られた当時は戦後10 年で、最後も飛行機が物資を投下するシーンを観ると、何か戦争の影を引きずっているような雰囲気があって。バンザーイと日の丸をあげて飛行機を見送るという、その中にも色々なイメージを想起させる部分があると思いました。

会場での掲示

参加者A 今年の4月に来て半年ちょっと八丈島に住んでいます。仕事で月に1回程度青ヶ島に行くことがありますので、今の青ヶ島は知ってるんですけども、昔の青ヶ島を見ることができて非常に勉強になったというか、青ヶ島の歴史を学ばせてもらったと思いました。

グループディスカッションで出た意見を共有させてください。今はなかなか、周りの人に対して思いやりとか、こう関心を持つことが少なくなっている時代かなと感じますが、映画の中では人のことを心配したり、それからみんなで協力したり、そういった暮らしというのが昔あったんだということが描かれていたという意見がありました。また、たとえば今、八丈島とか青ヶ島で、ああいった映画を撮ろうと思った時に、どこまで方言を使って撮ることができるのか、というのも方言が現在は廃れてしまっているなということです。

参加者B 描かれている子供たちの動きがとても元気で素晴らしかったです。現代の子供たちと違って、とても元気で、それがとても印象に残りました。あと、ロケ地になってる乙千代ヶ浜(おっちょがはま)など、八丈島の昔のシーンが観れて嬉しかったです。

参加者C 映画で米俵に見えたシーンで、何でお米を船で出していくのかなとの素朴な疑問がありましたが、荒井智史さんの方から、あれは炭俵だということを教えていただき、そうなんだ!と。あと、船が3 か月も就航しない時に、なぜ八丈島から助けに行かなかったのか、というような素朴な疑問が出ました。それから、選挙権がないというのは、どういうことなのかなと。東京都なのにっていうような。それも素朴な疑問なんですけども‥‥

大澤 選挙権の問題については、名古屋学院大学の榎澤幸広先生の論文に詳しく書かれています(注2)。ネットでも「青ヶ島、選挙、論文」などで検索すると公職選挙法8条への問題点を指摘した、その論文が読めます。非常にショックを受ける内容ですが、ぜひ読んでみて欲しいです。

参加者D 男の先生が生徒に「この島どう思う?」と聞いた時に、生徒が「生まれた島だから好きだよ」という言葉は印象的でした、という意見がありました。また、今の八丈島の坂上(注4)の子供たちも「坂上は不便だけど好き」という子供たちがいるという話がありました。それから、島に独自の文化があることを掘り起こさなければいけないし、どう残していくかというのが課題になっているねという事。それから八丈でも文化をどう残していくかは課題であるという発言がありました。

荒井 やっぱり自分のひと回り上の50代ぐらいまでの島の人に観てもらった時には、島言葉への違和感だったりとか、神事の描かれ方だったりとか、中央から見た島に対する偏見だったり差別感を感じるようなところが凄く気になって、何か引っかかったり、ちょっと言いたくなるところがあったりしながら観たのが本心なんですけど、やっぱり一番年配の、78歳の方が観た時に、その方はリアルタイムで、そういう偏見だったりとか、そういう思いをしてきた人なんですよね。だから、怒るかなと思って心配してたんです。観たら何かすごい怒って、退席しちゃうかなと思って、神事のことなんかもそうなんですけど、そんな思いがあったんですけど、いや全く逆でね。その方が一番感動して「いや~、いいものを観たっ」て言って、あれが一番印象的でしたよね。

大澤 そうですね、本当に。

荒井 やっぱり自分が体験してきた。その時まさに自分が見たその空気みたいなものが、この映画にあるみたいで、何かその時代に戻っちゃったような感じで。だからちょっとやそっとの偏見とか、そういうのはいつも浴びてきてたから、たいしたことないというか‥‥それよりもこの映像を観て、自分の体験した子供の時に、ぎゅっと、タイムスリップしたような、最後の物資が降ってくるシーンとか「もう本当にこうだったんだよ、走って追いかけたんだ!」と。

大澤 本当にそれは、すごく講座をやって良かったなと思った瞬間でしたね。

荒井 一つの映像から受け取るものっていうのが、この映画はドキュメンタリーではなく、フィクションではあるんですけど。それぞれの体験によって受け取り方が変わって、それは凄く映像の面白いところだなと感じました。

大澤 そうですね、あとは青ヶ島で生きている人の悩みというか、この島で生まれて、どう生きていくかという事も、青ヶ島での上映が終わった後の打ち上げで結構話してくれた女性がいて、その彼女は、この映画のクライマックスシーンともいえる、夜に先生を訪ねていくシーンで女教師が「この島は海に沈んでしまえばいいと思う!」っていう 衝撃的な発言をするシーンはありましたけど、これはかなりドキッとするシーンで。だけど青ヶ島のその女性は、私もそういう風に思った事がある、という話を私に言ってくれました。あの映画のシーンは、内地から来た先生が悩むというシーンですけども、青ヶ島で生まれ育ったひとも、青ヶ島に対していろいろと複雑な気持ちを持ちながら生きているという、そのことは、私には大きな発見でした。

荒井 やっぱり世代を超えて多世代で一緒に、なかなか最近、こう映画もスマホで自分で観れちゃったりするので、一人で観るような機会ばっかりですけど、時々こういう上映会でもって、いろんな世代で観て、話ができたら、自分の住む地域への受け止め方も変わる瞬間があるのかなって思いました。

大澤 では、皆さんには今日のいろいろな議論を受けて、青ヶ島のひとたちに手紙の返信を書いていただければと思います。ありがとうございました。

(注1)[1966]『牛とかんもと神々の島 ー東京・青ヶ島ー』NHK放送文化財ライブラリー。
(注2)榎澤幸広[2011] 『名古屋学院大学論集社会科学篇 第47巻 第3号 公職選挙法8条への系譜と問題点― 青ヶ島の事例をきっかけとして―』。
(注3)宮本常一 [2013]『離島論集第4巻「馬毛島・青ガ島のその後/ 離島と観光の問題」』みずのわ出版。
(注4)八丈島の集落は、島の南東部に位置する三原山を中心とする樫 立(かしたて)・中之郷(なかのごう)・末吉(すえよし)で形成される坂上(さかうえ)地域と、島の経済活動の中心地である大賀郷(おおかごう)・三根 (みつね)で形成される坂下(さかした)地域がある。

還住太鼓